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東日本大震災から間もなく14年。「あの日」の経験を、世界へ、次世代へ、伝えようとする人たちがいる。活動の場は異なるが、思いは一つ。新たな犠牲者を出してはならない――。
昨年11月、インドネシア。死者・行方不明者数が22万人を超えるスマトラ沖大地震・インド洋津波から20年の国際シンポジウムがあった。
各国から集まった参加者を前に、14年ほど前の震災に触れ、「過小評価」や「失敗」などの言葉を織り交ぜて説明したのは、元気象庁職員の上垣内修さん(64)=千葉県柏市=だった。
気象庁は当時、地震の規模を表すマグニチュード(M)を7.9と推定し、地震発生から3分後、予想される津波高を「岩手・福島3メートル、宮城6メートル」と発表。実際は国内観測史上最大のM9.0。各地を10メートル超の津波が襲い、多くの命が奪われた。
信じていた「定説」は崩れた
会場に映し出したスライドには、低く見積もった津波高の情報が人々の避難を遅らせたとの指摘があることも紹介。「我々の失敗を繰り返して欲しくないから、包み隠さずに伝える」という決意で、壇上に立った。
大学院の修士課程で東大地震研究所に進み、地震学を専門的に学んだ。地震予知研究が注目され、「大きな夢を抱き、いずれは地震の現象を理解し、人間が被害をコントロールできるようになる」と信じていた。
1984年に気象庁に入り、地震や津波の観測データをリアルタイムで監視して警報などの防災情報を提供するシステムの開発に携わり、専門性を磨いた。その後も地震分野で中枢のポジションを歴任し、震災当時、地震や津波の部門の筆頭課長という立場だった。
自他ともに認める「地震一筋」のキャリアの中で、あの日は「ハンマーで頭を殴られたような経験」として記憶に強く残る。
午後2時46分。東京・霞が関の地震学者が集まる会議で、船酔いを起こすような揺れの中、携帯電話に気象庁から届いた一報を大声で読み上げた。出席者の多くが、想定されていたM8程度の宮城県沖地震が「想定通り」に起きたと疑わなかった。
しかし、地震発生から30分もすると、各地で大津波が観測され、最終的にM9.0と発表された。自分が信じていた「定説」は崩れ、「もっと自然に謙虚でいるべきだった」と反省した。
その後の津波警報の見直しで、中心的な役割を果たした。非常事態と伝え、一刻も早い避難につなげるため、2013年からはM8を超える巨大地震で生じる津波警報の第一報は、数値ではなく、「巨大」「高い」など言葉で伝えることになった。
元同僚の一人は「気象庁に猛烈な批判が向けられている時、一身に背負って取り組んだ。相当な苦労だったに違いない」とねぎらう。
20年に退職後、国際協力機構(JICA)のプロジェクトに参加。インドネシアの気象関係の若手職員らに、迅速な津波警報の発表に欠かせない地震の規模を計算する技術などを伝える。年間100日ほど、現地で過ごし、今後はフィリピンでも教える。「現場を知っているからこそ、共有できる経験がある。風化させることなく、これからも伝えていきたい」。震災の教訓は世界にも引き継がれている。
間もなく定年、いまこそ伝える
「震災の経験を話すことは、警察官の命をいかに守るかを伝えるひとつの手段になるはずだ」
宮城県警仙台南署長の菅原優さん(60)はそんな思いで、昨年8月から署員による定例の「伝承教養」を始めた。
地域課長として赴任する予定の、沿岸部の石巻署に引き継ぎで訪れていた際に被災した。津波警報のサイレンが鳴り響く中、住民の避難誘導をする現場の署員たちには「避難誘導しながら退避を」と無線で呼びかけ続けた。
県警では震災で14人の警察官が命を落とした。うち1人は当直勤務をともにして、カレーライスを振る舞ってくれた同僚だ。「無理はしても、むちゃはしない。必ず絶対に帰ってくるという意思だけは忘れないで」と署員に伝える。
振り返ると、震災から14年近くが過ぎ、あの日の経験を人から尋ねられる機会も減り、自ら語ることもなくなっていた。
「俺一人だけ話してもしょうがない。みんなそれぞれの場所でいろんな経験をした」と考え、2回目からは他の署員が講師役となった。
遺体安置所で、震災当日に言葉を交わした後輩警察官の検視を担当した人。現場で活動する警察官のためにパンや弁当など食料の確保、配給に奔走した人。初めて聞く話ばかりだった。「みんな当事者だったから、これが大変だったと自分からあえて話す人はいなかった」
この春、定年退職を迎える。県警では震災後に採用された職員が4割を超えた。「自分の命を守ってこそ、警察官は地域の人々を守ることができる」。いずれ震災を経験していない世代が活躍するようになっても、伝え続けて欲しいと願っている。